Kyrie eleison

 今朝の北関東は、快晴。気温は昨日よりちょこっと暖かい感じです。

 こないだ大人買いした本のひとつ篠田真由美さんの「angels」を読んでたら、別の本で引っかかっていた部分の謎につながっていて一人コウフンしちゃいました。
 浅倉卓也さんの「四日間の奇蹟」のラストでこんなシーンがあります。

 ふと、店内に流れていた音楽の、英語詞の一節が飛び込んできた。
 (中略) 
 BGMの彼は繰り返し、知らない単語によるフレーズを叫んでいた。どうも英語には思えない音である。
 生きているのは僕ら自身である。では僕らを生かしているのはいったい誰なのか。答えのあるはずもないその問いを心に浮かぶに任せながら、僕はその音に耳を預けた。
 キリエ・エレィソン
 そう聞こえるその言葉が誰に向かって放たれたものなのか、不思議とはっきりとわかる気がした。

 妙にこのシーンが浮いてて意味不明だったのですが、「angels」のラストでこんなのがありましてね。

「ねえ結城君。さっきモリ君が歌ってたの、ミサ曲だっていったよね?昨日の昼間のときのも、そうだったって」
「ああ、バッハのロ短調ミサ曲」
「ミサ曲って、確か一番最初は『憐れみの賛歌』っていうのから始まるでしょ」
「そうだよ」
「その歌詞、いま覚えている?」
「俺はクラシック屋の息子だぜ。それが-」
 どうしたといいかかけて、止まった。その場に凍りついた。
 (中略)
『Kyrie Eleison・・・・・・』
 キリスト教のミサで歌われる歌詞はラテン語だ。しかしここには新約聖書を書いた言語である、ギリシャ語が残されている。
 KyrieはKyrios(主)の呼格だ。
 主よ、憐れみ給え。
 キリエ・エレイゾン。

 「四日間の奇蹟」では何の説明もなく唐突に↑のような話が出てきて意味不明だったんですけど、「angels」では丁寧に意味の説明がされててようやく理解できました。ま、「angels」のKyrie Eleisonは、実はその語意そのものにはあんまり意味がないんですけどね(笑)

 踏切脇のマルバルコウは、まだガンバって咲いてました。

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